This incident is in Pusan.

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Cats are put in bags and binded by cords tucking up their sleeves with a sash.They can’t move and are sold on the road as living meet.
These acts go back the human education and give the bad influence to the children all over the world.
Animals are abundant in feelings. Birth and very hard is as same as our human beings.If we can’t understand and bring up, peace won’t come on the earth.There is an urgent necessity that everyoneunderstand in minds, we think about another and coexist. So.that is the one and only way. To support that please read The universality education.
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念のために言っておくが、私が唱える・光る・とは、決して有名になることや、社会的地位を築き上げることでもない、その国の宰相や大統領になることでもない。これらは 全て人間社会に合わせる自己満足の心と言える。四次元「高低、左右、前後、時間」、つまり 重力と光の世界から逸脱した精神を自分の中に創り上げることを、光る人間というのだ。でなければ宇宙に届かない、砂浜の一粒が大統領になった所で、宇宙からはその一粒が見えないし、気付かれることはない。それは重力の求心性の域を出ないからで、元々人間や他の生物に組み込まれた精神作用に尽きるもので、宇宙「天地創造者」からみれば珍しいことではない・つまり、食物連鎖で生きる心は重力が応用され囚われ、宇宙から感知されるものではない。目立つ「光る」には一際異なる精神波長を生み出すことである。重力に囚われない精神波長である。言い換えれば、殺し殺される、また 食うか食われるか、の心を認め何とも思わず生きている自分を否定する心の作用に疑問を持つことから始まる。

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また 今年も寒くなって来る。大阪はノラ猫があっちこっちにいて、身を隠す場所や寒さを凌ぐ所が無く、水の都大阪と言っても、彼らには水を飲む場所すら無いのが現状。いつも 寒くなると彼らはどうしているのだろう。と憂いをもつ。教え・人生を通じて勉強とは、常に新しい自分を作り上げることにある。気が付かなかったことを気づき、知らなかったことを知り、昨日まで出来なかったことが出来るようになり、常におもいを巡らせ、思考 考察 思惟 疑似体験 想像 創造 を繰り返す。そうすれば徐々にに自分が変わり始める、「人を変えようとするならば、先ず自分が変わることである」。やがて 年月が経ち自分が変わり行くことが自覚出来るようになる。勉強の終着駅は 新しい自分「つまり人格や性格が大きく変わり、優しく芯の強い人間」作り上げる過程をいう。こうして初めて「朝に学べば夕に死すとも可なり、孔子」、この言葉が胸に響いて解るようになる。

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水滴と宇宙 第235回2010年10月5日大阪日日新聞掲載

水が水でいられるのは水の中に張力が働くからである。内向きに引っ張るその力があるから気体にならず水のままでいられる。と、微粒子専門のNさんが言っていた。人間の精神も同じで、自意識という内向きの力があるから自分でいられる。もし、自意識がなければ精神がバラバラになり自分が分からなくなる。

漠然とした自分の概念にも種々の分野があるが、その中心となるのは自意識であり自我である。肉体と同様、精神も中心に向かうことで成り立っている。つまり、重力から応用された形体である。1滴の水であれ、動物の1個体であれ、地球、太陽系、銀河であっても全て同じ応用で形づくられている。

魚の群れ、人間社会、1国の集団、星群など、集団で考えても同じことである。これらの集団は各々領域を持つ。銀河という集団の中に太陽系というグループを持つのも、世界人類の中に1国という日本国があり、さらに細分化されるのもまた同じことである。そして、なんだかんだ言っても、創造者にインプットされたまま、独りよがりに生きているだけなのが、我々生物である。

前に「重力の功罪」について述べた。それを分析し、長所と短所を選り分け、長所を温存し短所を実行せず変換させることが人間としての私たちの使命であり存在理由である。冒頭のように自我は生存には極めて重要であるが、我がままを通し他に巨大な迷惑をかけて生きているのが私たちだ。今日では世界中の人間が何も気づかず動植物にも劣る生き方をしている。

とりあえず1つだけ例をあげると、動植物は懸命に地表を守ろうと我が身を投じて生きているが人間はどんどん地表を破壊しているということだ。誰もがわかっている事実である。さらに地表の呼吸を止めるかのように人間はアスファルトやコンクリートで固めてしまった。

自然破壊である。何とか自然を取り戻そうと、動物が排泄物を叶わぬまでもまく。しかし、立て札がある。「犬のオシッコ禁止」と。

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魂と意志の考察 第228回2010年8月17日大阪日日新聞掲載

彗星を発見した天文学者のKさんが、臨死体験をしたことは周知の事実である。臨死体験とは、つまり、1度死んだ状態であったということである。約30分間心臓が止まっていたらしい。その彼に会って30分の間に何を見たのか聞いてみた。「大きな河のような帯状のところへ行き、その全体の一粒が自分だった」と言っていた。

次に、医学博士のSさんが「臍帯(さいたい)血は万能の治療薬だ。血液型や遺伝子にも左右されずこれからどの形にでもなる、要するに誰にでも注入ができる未確定のものであって、効果を発揮する」と言うのを聞いた。臍帯血とは、胎児と胎盤とをつなぐやわらかな索状の器官の中にある液体である。

この2人の語る内容は前回述べた「自意識が魂の実体」であるということに繋がる。肉体が滅びると、その生涯の総計(善悪の比率と正誤の比率。例えばある一人の人間が持つ善10%悪90%、正20%誤80%というような比率。)を持った魂、そのままの主体が意識としてあるのだが、脳が存在しなくなるので記憶の全ては消去される。

そして無意識となり、異次元である巨大な河に着陸する。そこで判決を待ち、次の肉体に移行され再び脳を得る。これが、無意識が自意識に変化する瞬間だ。どんな生物の脳を得たのかは天のみが知る。更にふるいにかけられる。人に生まれても、猿に生まれても格差がつけられる。

人間の場合、受胎すると当然、まだ何にでもなり得る臍帯血が設定され、そこに魂が組み込まれていく。そして、ある時機まで、誰のものが誰に付着されるのか検討される。ここで既に格差が発生する。大統領の子供として誕生するのか、アフリカ難民の子供として生まれるのか、生まれてすぐにゴミ山に捨てられえる結果となるのか、大きな違いである。

「天網恢恢(かいかい)疎にして漏らさず」という老子の言葉の通りである。「天の網は広大で目が粗いようだが、悪人は漏らさずこれを捕える。悪いことをすれば必ず天罰が下る。」という意味だ。要約すると、自己の一生涯に総計があって、結果においてまずどの生物に生まれるかが決定し、次に同種の生物であっても格差が発生するということだ。

人間は善悪を持って誕生するが、悪を捨て善を実践する人生を!来世のために。

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人生の総計である『魂』によって行先が決まるⅡ 第226回2010年8月10日大阪日日新聞掲載

海ガメは砂浜に卵を産み落とし、去って行く。孵化した子ガメは一斉に急いで海を目指す。しかし、まれに海とは反対の方向へ行ってしまう子ガメがいる。海に辿りつけなければ無残な死が待ってる。我が子を捨てた親は、このような運命を持つ子ガメにうまれかわるだろう。

「そんなことはない!人間は人間に生まれる。現に親子は似ているではないか。」と反発の声もあるだろう。親子が似ているのは、肉体や動作であって魂ではない。だから、どのような環境であっても「あの親にこんな子が」「この子にあんな親が」というようなことが起きる。

いずれにせよ、生涯をかけて善い魂づくりを行わないなら、いつまでも人間として存在できない。人間として存在する意味と価値がないからだ。他の生物を見るごとに、来世の自分の姿ではないかと自問することが大切である。自分の魂は悪や誤りが多いのか、善と正しいことが多いのか、人生の最期にその密度が計算され、何に生まれ変わるのか決定される。自意識が魂の実体である。

次に他の生物として生まれた時、今持っている自分という意識が、そのまま移行される。脳はなくなっているから記憶は何ひとつない。ただ自分という意識だけが残る。その自意識を持ったまま、小動物に生まれ蛇にのみ込まれる自分、あるいは鹿に生まれライオンに追いかけられ鋭い爪と牙に殺され喰われてゆく自分、イノシシに生まれ銃を持った人間に追われ恐れおののきながら逃げ回る自分、を想像してもらいたい。

生涯をかけて善い魂創りを行わないと、とんでもない事になる。善い魂創りをするには善いこととは何かを知らなければならない。知るためには深い心の勉強が必要となる。死ねば親子でも行き先が異なるのだから。

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重力と人間Ⅵ重力には意志がある 第219回2010年6月15日大阪日日新聞掲載

宇宙を創造し3原則の応用から地上を創りあげたのは重力であると述べてきた。では、その重力は意志を持って万物を創造したのだろうか?

意志とは理性による思慮、選択を決心して実行する能力であり、知識・感情とは対立するものとされている。また、ある行動を決意しかつそれを生起させ持続させる心的機能でもある。

まず、地上誕生から約46億年。誕生当初の地球の温度は5千万度以上。徐々に冷え、現在の地上の平均温度は20度前後。これ以上は上がらず、これ以上にも下がらない。地上に動植物が存在できる温度である。

この間の地球の激しい変化を考えると、マイナス100万度になったとしても不思議ではない。しかし、そうはならなかった。生物が生息できる環境を保つため、超緻密(ちみつ)な計算がなされている。地球の大きな変化に比べれば、ほんのわずかな温度差で調えられている。

太陽は6千万度、太陽から最も遠い冥王星はマイナス6千万度。太陽の高温がいまだ衰えることはなく、冥王星の温度もあまり変わらない。他の太陽系の惑星を分析しても、誕生時の温度からの大きな変化はなく、生物が存在できる環境ではない。なぜ地球だけが変化し私達生物が存在できているのか。緻密に計算して作られたとしか考えられない。

また、太陽系以外にも地球と同じ生物が存在する星があると推測されているが、いまだに見つかっていない。おそらく地球は宇宙で唯一である。それは偶然ではない。地球は太陽の熱と光を20万分の1だけ吸収し、北極・南極の氷で太陽の熱を反射し必要以上の熱を留まらせないよう調整されている。とても繊細な緻密な構造である。

このようなことが計算されたものではないと誰が言えるのか。冒頭に述べた意志について、感情とは対立するが私達は感情を持っている。重力には感情がなく分からない。広大な大宇宙の中で感情を持っているのは、この地上に生息する人間と動物だけである。その人間と動物、あるいは人間同士がせめて助け合い尊重し合うということがどうしてできないのか。悲しいかぎりである。

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重力と人間Ⅴ地球と人間の類似 第218回2010年6月8日大阪日日新聞掲載

先日、アレルギー専門のS博士から、人間の皮膚構造について学んだ。その構造の緻密(ちみつ)さに驚くと共に地球の構造と酷似していることに気づいた。

人間の皮膚は表皮・真皮・皮下組織など4層から成り、更にその内側にも種々の組織がある。表皮の部分は弱酸性に依って保護されており、黄色ブドウ球菌が皮膚に付着するのを防いでいる。一方、地球の表面は、地表から対流圏・成層圏・電離圏から成り、人間の皮膚と同じように層になっている。

地表から約40~50キロのところにオゾン層があり、太陽からの紫外線を直接浴びないようになっているのも、人間の皮膚が保護されている状態に似ている。また、地球上のこれらの層は、宇宙空間から地球上に落下する物体を焼き尽くし被害を食い止めている。

先日、宇宙船から帰還した野口さんが乗っていたカプセルが地球を保護している幾つかの層を突き抜ける時、火の玉と成って通過するのを映像で見た通りである。地球の内部にも同様な層があり、中心核(コア)を保護している。

太陽から冥王星までの太陽系の外側も何かに覆われ、大きく1つのグループを保護している。銀河系の中の幾つかの星が1つのグループとなり、それぞれが独立しながら無数に幾重にも存在する。例えればシャボン玉の中に無数の星があり、そのシャボン玉が無数にあちこちに存在しているようなものである。地上も然り。

種類の異なる動物が各々に群れを成している。人間も同様に、村や町、区や県、国や地域と幾重にもなる集団の固まりである。こう見てくると、やはり地上も人間も宇宙の構造すらも重力からの応用で成り立っていると考えざるをえない。

しかし、私達人間は地表を掘り、削り、穴を開けて地球に大きな皮膚病を与えている。私たちは増殖する寄生虫となって地球に対して破壊行為を繰り返し、自然破壊を続けている。掘り出している鉱産資源や石油は地球の血液であり細胞であるかもしれない。そのうちに見兼ねた太陽系の兄弟が、地球を消毒しに来るだろう。人間という寄生虫を殺すために。

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重力と人間Ⅳ宮崎牛に想う 第217回2010年6月1日大阪日日新聞掲載

「動物をどう扱うかによって、その国のモラルがわかる」とガンジーは言い、「私は人類の権利と同様に動物の権利を支持する。それが本来の人間の取るべき道である」とリンカーンは言った。やはり偉人は良くわかっている。

それに比べてあまりにも勉強の足りない人間が多すぎる。いい加減に人間は動物に対する残虐行為を止めるべきである。まるで人間に特権があるかのように振る舞っているが、人間も他の動物と同じように種の存続目的で地上に存在させられているにすぎない。

国の指導者であろうがサラリーマンであろうが、何をどのように生きてもそれは同じである。その他に人間が生きている理由や目的がある訳がない。人間を含む地上の全ての動物には種に対する員数がある。そして各々に決められた生息場所があり、それが変わると異変が起きる。オーストラリアのウサギがいい例だ。

ある種の生物が一時的に繁殖しても何らかの理由で減り員数が合わされる。人間も交通事故や災害や戦争などで員数を調節されている。口蹄(こうてい)疫に想うことは、人間が安易に生物を移動し生物環境を狂わせていることが原因かもしれないということである。

もう一つ、昔出会った牛のことを思い出した。夕方、踏切の近くを1頭の牛が息も絶え絶えに走っていた。疲れきっていた。だが、必死に走ろうとしている。近くの“屠殺場”から殺されまいとして逃げてきたのである。数人の男が棒を持って追いかけてきて殴りまわして連れ去った。

いたたまれない気持ちになった。そのような状況を知らずに肉を食べている自分を恥じた。人間のように知恵を与えられなかったが同じ感情は持っている。冒頭の偉人のことばに付け加えたい。「動物の扱いによって、その人間の精神レベルがわかる」

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重力と人間Ⅲ 第216回2010年5月25日大阪日日新聞掲載

今では武器を持ち強い対抗性を持たなくても、人間は他の生物に捕食されることがない。その結果、対抗性・物欲・知恵の3つが絡み合い乱れた状態で人間の精神の奥に巣くっている。その固まりに人間は支配されている。

そして、求心性や規範性にも大きな影響を与えている。求心性として愛情を持っているはずの我が子に「誰それに負けるな」と歪んだ精神を植えつける。規範性である起床にしても「少しでも長く寝る方が得だ」と言ったりする。早起きして食べるものを探さなくても、保存した食料があるからだ。

自然に生きる他の生物は、早起きしないと食べる機会を失い、一日中空腹で過ごさなければならない。このように、自然の生物であるはずの人間が越えてはならない一線を越え、更に越えた結果が現在の状態である。それは、はっきりと三欲「食欲・性欲・物欲」に表れている。

肉体を維持するための食が、飽食と限りない美食へと変化している。種を存続するための性行為が、アダルトビデオに見られるように、異常な性行為を求めるようになっている。生きるために必要な道具から、贅沢(ぜいたく)な物欲への変化がむき出しとなっている。

これに比べ、他の生物は、食となる生物を必要以上に捕食せず、種の存続にのみ性行為を成す。しかも、必要な物しか求めない。このスタイルは遠い昔から変わらず、真理を守り続けている。それなのに、飽食で物欲の激しい人間が、必死で真理を守り続けている動物たちに残虐行為を繰り返す。

例えば、肉食動物に食を与えず、空腹にさせておき、その中へ草食動物を放し、襲われ食われる様子を見物する者たちがいる。最も恐ろしいことは、このように変化した人間がその自分に気づかないことである。宮崎牛が大量に殺処分された。彼らの生涯は、人間に食われるか、人間の勝手で殺されるかである。

実際に平等であるということは、人間も他の動物も同じように万遍なく生まれ変わるということである。明日は、自分が宮崎牛の一頭であることは間違いのない事実である。いつまでも人間でいられると思うな。

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