教育の定義第162回2009年4月28日大阪日日新聞掲載

これまで「人間による人間のための人間教育」だけが行われてきた。古代から現代まで争いが続いているのは、その教育が不完全であることを意味している。もちろん、教育は人間がつくり上げていくしかない。

しかし、義務教育の指導要項や科目ごとの内容を増やしたり減らしたり、いくら変えたとしても完全な教育にはほど遠い。向上した人格形成ができていれば机上の学問などいつでも身に付くのである。本当に教育すべきなのは人間としての在り方、尊い人格を持つことである。

そのためには既存の視点や考え方を捨てなければならない。人間の作り上げた常識や人間中心の哲学では限界が来ている。ルソーは「自然は書物」と言ったが、動植物の成長過程や特徴を知るだけでは何の益にもならない。それらを知った上で、その仕組みや構造、他とのつながりについて考案し、疑問を持つ。動植物の側から人間世界について考える。

そうは言っても人間はなかなか既存の思考を変えられず、反対側の立場に立って見ているつもりが、全く自分側の立場から動いているものだ。このような概念を突き破っていく教育が望ましい。例えば、以前紹介したように宇宙全体から見れば惑星や恒星を形成している岩石の方が、生物の命よりも重要なのだというような視点。男と女、雄と雌さえいれば無限に増殖する生物に比べ、宇宙を構成するものの有限さに気付く考察。物事を「考える」ということは簡単に言い表せるような軽々しいものではない。

深く物事をとらえる精神がなければ不可能である。その精神を養うには、小さな狭い人間社会の目線を超えること、欲に縛られた人間世界から逸脱した価値ある世界へと目を向けること、である。さまざまな問題や困難なことが待ち受けている現代を生き抜き、救う答えは、このような新たな教育の確立にあるはずだ。

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