先日、車に轢かれたイノシシが激痛と不安から暴れ狂い射殺された。そのイノシシの立場から見れば、人間が「車」という物に乗り自分を襲い、骨が折れ激痛が走り、再び人間に襲われると思ったのだ。死に物狂いで抵抗するのは当たり前。人間によって居場所を追われ、食べ物もなく探しに出たら、人間が操縦する「車」に命を奪われそうになったわけである。
悲しいことの連続である。麻酔銃で眠らせ病院に連れて行き回復してから野生に戻してやるべきだが、戻る場所すら人間が奪ってしまった。哀れな存在だ。この哀れな存在を殴打し射殺するとは教育上、極めて悪である。
私たちと動物には大きな差はない。人間とチンパンジーの遺伝子は1パーセントも差異がない。異なるのは親指の付き方。それによって器用に物が操れるようになったチンパンジーが人間であるだけだ。もう一つは全身が毛で覆われているか、いないか。人間だってそれほど長くないだけで体毛は全身にある。
生体や社会生活においても人間と同じようにオスがメスを大切にしたり群れを作ったりする。ということは感情も人間と同じように豊かである。だから「痛い、悲しい、苦しい、辛い、不安」なども同じように感じる。
人間と動物は大きな一枚の碁盤割りされた岩板から分離されただけである。同じ板の上だから共通したものを持つ。無数の碁盤目の一つに「人間」と表示され隣の目には「サル」、その隣は「イノシシ」というように地上の生物の種類が全て一つ一つの目に表示されていると考える。
「人間」とかいてある目を食パンをちぎるように、ひと固まり切り離し粉々にした一粒が自分である。「イノシシ」も同様である。表面のほんの一部が少しだけ異なるだけで本質は全部同じだ。正体と本質と実態は一枚岩である。これが生命あるものの出発点だ。「人類みな兄弟」という言葉があったが、違う。「生命あるものはすべて兄弟」なのである。