人間の存在理由(重力の功罪9)第131回2008年9月9日大阪日日新聞掲載

時折、街路樹になりきり、木の気持ちになって人間社会を見てみる。気になった私は、足下をコンクリートで固められ排気ガスにストレスを感じながら、懐かしい土のにおいや本来自分がいたであろう森林へ戻りたいと切望している。また動物になりきって、その目を通して人間社会を見ることもある。

 

そうすると、人間の目から見れば大事に飼われているペットも、人間の都合に振り回され、家という狭い場所での食事の内容や回数を決められ、しつけといって怒られ、ある時はほったらかし、ある時は溺愛されて多大なストレスを感じていることが分かる。

 

これだから野良猫や野生生物の目を通してみれば、人間の所行は悪魔に見えることもある。このように、そのものになりきって見ることは容易ではない。なりきっているつもりでも人間である自分の視点を捨てきれず、なかなかなりきれない。視点を変え客観性を身につけたつもりで我執を捨てきれない。

 

よく「人の立場になってみる」というが、本当にそのように見える人は、ほとんどいない。なりきれないからである。ではどうすればよいか。なりきるための訓練が必要であり、一度身についても常に磨く努力をしていなければ鈍くなる。北原白秋も毎日、庭に来るスズメにエサを与えながら二年半ずっと考え続け、ある日「私もスズメとまったく同じだ」と思い至ったという。それくらい長く深い思索にふける訓練が必要だということである。

 

われわれは人間社会の中にいて、当たり前のように人間しか見ず、常に人間に対してだけの価値観にとらわれている。つまり、エゴの塊なのである。あらゆるものになりきって多角な角度から洞察し、わが身に置き換えた客観性を身につける訓練を教育の中で実践すること。それが諸問題の解決につながる。

 

そして、その能力を発揮することこそが人間の存在理由につながるのである。

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