人間の存在理由(重力の功罪5)第127回2008年8月12日大阪日日新聞掲載

北京オリンピックが開催されている。スポーツを競うことは「自己との闘い」と言われる。しかし、突き詰めて考えれば肉体や精神以前に「重力との闘い」である。例えば、棒高跳びなどは、どれだけ重力に対して高く上がるかに挑んでいる。ほとんどの競技は、重力にあらがいながら肉体をいかに操るかに尽きる。

つまり、重力への挑戦であり対抗性である。また、一つでも多くのメダルを求め自国の国旗を掲げようとする精神は国民および家族への求心性によるものである。そのために猛練習し訓練のメニューを規則正しく消化し、体に覚え込ませる。その技能を瞬間に発揮させる行為は規範性によるものである。

同様に戦争においても敵と戦うことは対抗性であり、闘う理由は国や家族を守ろうとする求心性、軍隊の行動は規範性に基づいている。このように身の回りから地上の隅々まで重力の三原則が行き渡り機能している。森羅万象あますことなくこの三原則とつながっているのである。

ここまで説明すれば重力が基となってこの地球やわれわれが創(つく)られたことがおわかりいただけただろう。繰り返すが、重力の法則に基づいて創られたこの地上はすべてに間違っている部分がある。間違っているから世界のどの教育や政治、学問や哲学をもってしてもいまだに地上が救われていない。そればかりか羅針盤を失い浮遊しているのが現状である。

人間はどこから来て、どこへ向かうのか、まるで答えがない状態にある現在、出発点を示し、向かう方向を明確に説いているのが、この「人間の存在理由」なのである。誰もが、ふとしたときに「何かが違う。こんなものではない」と思うことがあるはず。それは、普遍的な理念に基づいた教育や政治が亡く不完全な世界に存在するからに他ならない。

世界の政治や教育の中心は、常に一つの軸に相対したものでなければならない。

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