普遍教育実践講座第255回「自己の精神を発明せよ」

特許や実用新案など約70件以上を考案し取得してきた。常に前向きに新しいことを考えている結果である。新しいことを考えて行く過程で、ある心の作 用に気がついた。「物・言葉・精神」である。「物」は目に見える。「言葉」も文字に変えれば見える。しかし、「精神」は目には見えない。思考したもの、あ るいは考えだしたことを言葉にしなければならない。

「精神」を言葉に変換する作業はかなり難しい。「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」という有名な文章は、まさに優れた言葉の組み合わせであって表現の発明である。作家たちが、常に新しい表現を考えている行為は考案であり、表現の発明を試みる姿であろう。

では、精神の発明について述べよう。例えば、食物連鎖を形にするとピラミッドになる。数の最も多い1番下から植物・昆虫・小動物・草食動物・肉 食動物という順である。ここまでは現象であり知識である。しかし、昆虫にあるいは小動物に感情があるのかと自問し分からないから飼って観察してみよう、と 精神の考案を試みる。

観察し始めると、思いやりの心を持たないと相手の心を心眼で捉えられないとしる。それは、知識ではなく新しい自己の発見となり発明だと言える。 つまり、そのように埋蔵され眠っている精神を目覚めさせる行為が、良心の開発をする作業となる。そして、自分の精神の中から、新しい心の発掘と発見を繰り 返し行う。それを継続し止めないことに意義がある。そうすることによって、自己の中に新しい心が確立する。

その心を人に伝えることは難しい。人は自分の体験に裏づけされた言葉しか、本当は把握していないからだ。殆どは言葉の表面をなでるようにしか理 解していない。また、深い感情を表現する言葉は辞書に無いことが多々ある。だから、自分の心に近づかせるため、既存する幾つかの言葉を集めて組み立てなけ ればならない。

表現の考案、つまり発明となる。最終的には、他の感情を推し量ることができるのは、自己が内蔵する深い慈愛と鍛え上げられた良心という心眼であ る。頭や理解力ではない。だから薄情な人間は、良心を持たず「他の心の痛み」を感知できない。他の哀しみや痛さを知るには、自己の心の深浅度が鍵となる。 このような事に気づくことも、また発明なのかも知れない。

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