教育の原点第163回2009年5月5日大阪日日新聞掲載

天地創造された自然がすべて正しいとするのはどうか。自然について教育するとき、自然は正しいという前提でさまざまなことが教えられている。しかし、本当に正しいのかどうかもっと疑問を持つべきである。人間は何でも人智を超えたモノを正しいと信じやすい。信じ込んでしまうと、それ以上何も考えない。自然という壮大なテーマを与えられているのに、疑問さえ持たず、そこに存在する物の事実のみを教えるだけでは教育とは言えない。

例えば、食物連鎖について。生物は植物を底辺としたピラミッド型を形成しているのだと教えられる。自ら栄養分を造れる植物の数が圧倒的に多く、消費する者たちは数が少ない。その事実だけ伝えたところで何になるのか。すべての生物が生き抜こうとする背景には、他の不幸を自分の幸福に変える行為がある。植物であろうと動物であろうと、他の生物の細胞を食べながら生きている。つまり、他の生物の死と引き換えに食欲を満たすという幸福感を得ているのだ。この事態に疑問を持ち、真剣に向き合えば何を教えるべきなのかが見えてくる。また、逆に素直に受け入れるものもある。命懸けで子どもを守り育てる動物の親の姿、子供を自立させるための厳格さなどからは、むしろ積極的に学ぶべきである。親が子供を虐待している報道が後を絶たない。彼らは動物以下である。思考する能力のある人間がすることではない。そのようなニュースを見るたび教育の大切さを痛感する。

このような点を源としたものを教育の出発点に取り上げるべきではないか。いくら計算ができ英語が話せても、わが子に手をかける親になってしまっては何の教育も受けていない動物以下である。勉強をした人間としない人間の違いをカントは「針のある時計と、針のない時計」と言った。無勉強は、時計なのに時間を指すことができないことに等しく、人間なのに動物以下と成り果てる。

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