2011年世界哲学の一つ論点:人口抑制論

2010年は世界の人口は2億人口を増え、70億人口を超えました。農用土地の面積は2%減少、栄養不足人口は8億から10億になり、地球を救うためのECO、グリーン努力は、人口の増加によりすべて泡になる。この人口増加のスピードはどんな結果になりことは考えすべきである。このスピートでは、2050年の世界人口は110億になる。人類の密度は限度を超えると戦争か、餓死か、伝染病か発生する可能性は高くなることはだれても分かるはず。人口抑制は人類最大の課題になるべきと考え、世界へ発信したい。

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普遍教育実践講座第246回「橋本知事への直訴-6-」

教育の中で、人間が向き合うべき相手を的確にしないから教育が宙に浮いた状態となっている。不思議な事実が無数にあるにも関わらず、そこに目を向け課題として取り上げていない。それが、これまでの教育であり歴史である。

ウグイスは、縄張りに同種である他のウグイスが侵入してくると、仲間に「ホーホケキョ」と鳴いて警笛を鳴らす。侵入してきたウグイスを猛攻撃して追い払いにかかる。ところが、天敵以外の他種の鳥たちが侵入してきても警笛をならさず追っ払いもしない。

野生の生物に限らず人間の周りにいる犬や猫たちも、よく観察してみると同じである。主に対象として取り上げ敏感に反応する相手は、同種の生物なのである。これは同一種の数を調整する為にインプットされているからだ。

人間も全く同じである。外国から人間が侵入や侵略してくると、戦争を行ってきた。周りに他の生物がいても、余り関心を示さない。人間の中で、人間ばかりを見ている。人間に対してどうしようか、優位に立つには如何にするかなど、対象が人間を意識したものばかりである。

人間が作った勉強なんかをいくら行っても、他の生物の域から脱却していない。本能としてインプットされた状態のまま自らを放置している。私たち人間は、向き合う相手を間違えたまま今日に至る。

地球上にいる全ての生物の代表として、親として、向き合う相手を的確にし照準を絞り、立場を理解し、必ず終焉(しゅうえん)が来るその日まで、 全ての生物と共存共生を、果たさなければならない。人間が、向き合う相手は、全てを創造した重力である。その方向に向かないようにインプットされている が、間違いなく地球上の私達は、重力の三原則から応用されて創られた。全て唯物の世界で、お粗末な「心と呼ばれる」精神作用しか持たされていない。そう深 く理解し、体得して感じとらなければない。

この部分が「人間の存在理由であり、重力の功罪」である。「唯物では完璧であるが、真の唯心では悪魔である」「他の肉体を食って、自己の肉体を 持続させる」「他を究極な不幸にして、自己の幸福に変える」「他を悲劇のどん底に陥れ、自己の歓喜に変える」というような間違ったことが今も世界中の至る 所で発生し、日々尽きることなく無数に繰り返されている。なんとも悲しい現状である。

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普遍教育実践講座第245回「橋本知事へ直訴-5-」

このシリーズで述べていることは、思考だけでは捉え難い。会得と体得が必要であり、その上、感じとる慣れも必要とする。例えば、教師は最初に眼の前 にいる子どもたちを我が子と同じだと感じとる修行と訓練を積み重ね、その結果を出さなければならない。かつ、心構えとして次のことを念頭に置くことがス タートとなる。

すなわち、「ただ呼吸しているだけの生き方とは?」「ただ生きているだけの生き方とは?」「価値ある生き方とは?」「精神が完成された人間とは?」などである。このようなテーマを熟慮することで、絶え間なく考え自然に勉強を行い始めるだろう。

やがて、本人が驚くほど自分自身の変化を実感することができる。どんな微小な現象をも見逃さず、小さなことは巨大なことにつながると気づいてい く。そして、まだまだ人間の精神は未発達で動物や原始人と大差がなく、こん棒を振り回す腕力の時代が、核兵器に代わったに過ぎず争いが絶えない、と理解す る。

更に、どのように人間が動物と大差がないか具体的に把握する。例えば、数匹のライオンの家族がシマウマを倒し、競い合ってのどを鳴らしながらお いしそうにその肉をむさぼり食う時に「このシマウマに親や兄弟、あるいは子どもがいたのではないか、死にたくなかっただろう、恐ろしかっただろう、悲し かっただろう、激痛に耐えられなかったろうに」などと想いを巡らせてはいない。

これと同じく、人間の家族がスキヤキを大声ではしゃぎながら食べている光景は、全く同じであって動物の域から出ていない。動物の域から出ていな いということは、ただ生きているだけに過ぎず人間たる価値がない。シマウマの悲痛感を感じとり、ここに精神をもって境界線を設け、空白になっている心を培 い埋める作業=「他の心の痛みを感じとる能力」が教育の目標となる。

言い換えれば、自分や自分の子どもがシマウマと同じ立場になれば、悲痛感や恐怖感が変わらないと共有することにある。また、それが人間の存在理 由でもある。世界のひとりひとり、個々の中に、この心が息吹きさえすれば、今、全世界に発生している諸問題のほとんどが解決することは必至。でなければ人 間も含め地上の生物が絶滅するだろう。

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普遍教育実践講座第244回 「橋下知事へ直訴-4-」

ここで述べている事は、教師が精神向上を段階的に培うための題材のみである。詳しく書けば21年間追究した膨大な量となり書き記すことができないからだ。細かな内容は、題材を十分に理解した後でいい。

まず、教師が常に意識しなければならないのは、原点である。原点とは原始時代を想定することである。でなければ、教育の行き先が見えない。近代化の中に真の教育はない。原始的な哺乳類の一種である人間という生物に、善と正しいことを植えつける作業が教育だからである。善とは精神、正とは物事。真理を知ることは正である。

近代の人間は、精神は原始時代のままで多少の礼節をわきまえ、時代背景に応じた服装をし、車を運転したり整備された環境に居住しているに過ぎない。精神が原始時代のままだから、教育に行き詰まりがきている。これは日本だけの問題ではない。

そして、人間が人間を通して教育を行うから、いつまでたっても完成された教育にたどりつけないのである。教育の邪魔になっているものを明確に見分けることもできない。そのものになりきってみたり、意識するということが教育には重要である。

例えば、どんな親が理想なのか、赤ん坊になりきってみれば解る。自分が赤ん坊になって見た時、求める親がどんな親であってほしいか、自問自答すれば答えは出てくる。また、人間以外の万物になりきって、人間を客観的に見れば何を教えなければならないか、分かる。哺乳類は人間も含み全て同じである。

五官という五つの感覚器官を見ても同じく、熱いものは熱く、痛いものは痛い、悲しいことは悲しい。こういうことを念頭において動物になりきって人間を眺めたら、人間はどんな生き物に見えるだろう。

他人の子を自分の子と同じであると体得すれば、このように種々の物や精神が浮き彫りとなり心眼で見え出す。人は、少しであるが良心を持って誕生する。しかし、それを奪い去るのは常に大人たちである。大人の基準は、さまざまな損得という欲が常に作用するからである。

人は真理を超えて、正と善を身に常備して万物とその心に対し責務を全うしなければならない。それが人間という生物に与えられた使命であり、人間であるべき価値という報酬である。同時に教育の行き先となる。

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普遍教育実践講座第243回 「橋下知事へ直訴-3-」

日本の教育結果は世界から笑われている。現知事が在職中に日本を救ってもらいたい。つまり、大阪府が世界に先駆け、精神教育の発祥となり日本の崩壊を阻止して頂きたい。教育の基盤に芯(しん)を通し、その行き先を定義づける。それは最も難しいことではある。

その大きな原因は、欲を満たすことだけしか考えていない事と、教師が精神を奥深く探る勉強をしていないことである。これは世界中の教師にも言える。教師がお粗末だと、お粗末な生徒しか産出しない。やがて彼らが大人になりお粗末な社会人の一員となる。

政治家たちも同様である。国の宰相であろうと、誰でも義務教育は通過する。だから義務教育から変革するべきである。生徒や親を変える前に、教師 が限りない勉強をし変わらなければならない。教師が変われば子どもたちが変わる。その子どもたちが成長すれば社会が変わり、国家が変わる。国家が変われ ば、見本となり世界が変わる。

だが、教師が目指す着地点が現在の彼らの概念の中にあるわけではない。その道標を示したい。前回に述べた「他人の子どもを自分の子どもと全く同 じであると体得すること」「教育とは何か?」この2つを限りなく追求すれば、自ずと道が創り出される。未熟で愚かだった自分に気づき、世界で1番嫌いな人 間は過去の自分だと思うようになる。そうすれば、しめたもの。進歩した証拠である。

さらに道は続く。そのうちに、教育に人生を賭けるようになり、勇気がないのは貫く理念をもたないことにあると分かる。子どもたちには厳格さが必 要だと分かり、思いやる心が厳格さに繋がると会得し、厳格な自分が在ることに気づく。無謀と厳格、そして勇気と無謀の違いも分かる。文字や距離の測り方を 識(し)ろうとすることだけが勉強ではないと気づく。

それらは学問知識に過ぎない。地上にあるものを識ろうとすることは唯物であって真の勉強とは言えないということにも気づく。そう気づいた教師の 勉強は、限りなく思索を巡らせ、尽きることのない考えに突入する。やがて、子どもたちやその親が日常生活の中で何も考えることなくただ反応だけして生きて いる、ということにも気づく。

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