人間の存在理由(重力の功罪13)第135回2008年10月21日大阪日日新聞掲載

詳細な説明をしてきたが枝葉末節にわたり根幹がぼやけてしまっては意味がないので全体をもう一度まとめておきたい。

 

生物を含め地上にある一切のものは重力の意志によって創られ、その三原則が応用されたものである。中でも私たち生物は自ら求心性から派生した「精神」「感情」を生み出したが、いまだ成熟していない。

 

三原則に照らし合わせ、私たちは所有する精神構造にある欠落した空白の部分を埋める作業を行わなければならない。この作業にはさまざまな専門分野が必要である。例えば、物理学者と精神学者が一体となって作業を行う。この過程が学習するべきこととして世界の教育現場で発動され、この教育は地球規模で同じ内容のものでなければならない。

 

そのため、これ以上はないという完成された不変の真理であるべきだ。これまで世界でなされている教育は国や地域が変われば内容が異なり結局は個人主義、国家主義の利己的な考え方に尽きた。もうそんな狭い考え方では生物の生存を脅かすだけだ。世界中の個々の人間が精神の基盤として共通の会得した心理を共有するべきだ。地球規模の精神の開発である。

 

「重力」の側から見れば、私たち生物は無価値な存在である。自分たちを形作る岩石の方がよほど価値があると思われている。すべての生物を破壊から救うには、人間が地上における生物の中で唯一知恵ある者としての責務を果たすことだ。すなわち他の動植物たちと共存しながら、地上「岩石」の上で、どのように生きてゆくべきかを見つけ出し一刻も早く実践することだ。

 

地球に終わりが来る日まで、人間を頼みにしている子どもたち「動植物」の手を取り、私たち人間が道標を作り導いてやろうではないか。それが人間の存在理由だから。

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人間の存在理由(重力の功罪12)第134回2008年10月7日大阪日日新聞掲載

重力の三原則はすべての宇宙物体の基盤であり、支配者である。宇宙の構造だけでなく、地上における人間や生物の精神構造にも影響を与え、食物連鎖や人間が生きるという、性格などにも応用されている。そこで人間が備え持つ能力を、三原則を正三角形に置き換え表現したい。前回にその例を挙げたが、特殊なものであった。

図表①は一つの三角形を三等分し、その形に歪(ゆが)みのないのが、個人が生きてゆく上での最低基準である。だから義務教育と家庭による、子どもへの人格形成は中学卒業時に、正三角形となっていなければならない。

図表②は勤勉でまじめなのだが、対人関係をうまく保てない。

図表③は対応能力もありテキパキしているのだが会社に遅刻したり、人との待ち合わせに遅れるグループ行動がとれない。

複雑なことを大量に盛り込んだ、教育論など必要ではない。まず、生きる力としての基礎を完成させるべきである。今、すべての大人を含み、歪みのない正三角形を保てるのは、全体の何パーセントだろう。半分にも満たないと思う。

普遍教育実践講座第134回イラスト

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人間の存在理由(重力の功罪11)第133回2008年9月30日大阪日日新聞掲載

重力の三原則と正常な人格形成の関係を分かりやすく図にしてみた。正三角形中の等しい三つの三角形がそれぞれ重力の三原則を表す。この三つがどこもかけずにある状態がAの図になる。生きるために三原則がバランスよくはたらいている状態である。野生動物はそれに属する。

肉食動物を凶暴だという人がいるが、勉強不足である。自分たちの領域を必死で守っているにもかかわらず、人間が進入し侵害するので「対抗性」を発揮しているだけのことだ。また、よく働き、時間やルールを守り、親や子を大切にする人間もこのAの種類に属する。

Bの図は求心性が欠け規範性と対抗性が著しく乏しい状態を表す。現代のパラサイトやニートなどはこれに属する。親に依存する求心性のみが肥大し、自分は親に対して思いやりを持たない。社会に対応する能力や時間やルールを守る規範性がほとんどない。Aと比べるとBの図は大きく変容する。つまり人格が偏っていることが分かる。

Cの図はBと変形が異なる。これは極端に暴力的な人格を表す。暴力によって他を抑圧しようとする誤った対抗性のみが肥大しており、仲間と群れる求心性はあっても大切な思いやりや真心が空白になっている。また、間違った仲間内のルールは守っても社会道徳は無視した状態にあるので規範性も大きく変形している。このように三原則に従って人間像を簡単に図示することができる。

例えば「あの人はまじめだが思いやりがない」なら求心性を表す部分が大きく欠けた形となる。では、完ぺきな形はAなのかというとそうではない。Aは当たり前の人格であるというだけなので、下部に円をプラスしたDが目標とするべき人間像である。この円は「人間の存在理由」を会得していることを表す。個人も国家もDを目指さなければならない。

普遍教育実践講座第133回イラスト

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人間の存在理由(重力の功罪10)第132回2008年9月16日大阪日日新聞掲載

人間の世界、動物の世界、植物の世界、海や山の世界。すべての世界を併せて一つの世界であり、自分自身そのものなのである。そして、もう一つの世界がある。われわれにとってかけがえのない地球と、その仲間であり兄弟でもある惑星たちの世界である。

惑星たちの結びつきは固く、強力な三原則でお互いを生かしあっている。前回の応用で、他の惑星から地球を見ると、地表にうごめく人間や動植物が主体ではなく、地球そのもの、岩石の塊そのものが主体であり自分たちの仲間である。惑星たちから見れば最も大切なものは、生命ある人間や動植物ではなく、万物の根源をなす究極的要素としての元素や地殻などを形成する岩石の方なのである。

生命あるものが最も大切だと思っているわれわれ人間からすれば驚くべきことである。しかし、惑星からすれば己の肉体である元素や岩石の方が大切なのは当たり前のことである。「なぜ人間や動物が他の生きた細胞を食べなければ生きられないのか。なぜ砂や土、岩石などを食べて生きられるようにできなかったのか。そうすれば悲しみや苦しみが減るのに」と考えた。

考え抜くと恐ろしい結論にたどり着いた。岩石や土、砂は新しく造れない有限のものであるのに対し、生物の肉体は雄と雌さえあれば(まれに分裂という方法でも)無限に造り出せるのである。ここの生物は二度と同じ生物として生まれないが、生物全体を一つのものとしてとらえると無限に勝手に増殖する都合のよい消費製品だということになる。

その上、われわれにとって価値のあるものは惑星たちの重力の世界では無価値であり、彼らにとって価値あるものはわれわれにとって無価値であると思わせるような仕組みになっている。考えれば考えるほど恐ろしいと思いませんか。

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人間の存在理由(重力の功罪9)第131回2008年9月9日大阪日日新聞掲載

時折、街路樹になりきり、木の気持ちになって人間社会を見てみる。気になった私は、足下をコンクリートで固められ排気ガスにストレスを感じながら、懐かしい土のにおいや本来自分がいたであろう森林へ戻りたいと切望している。また動物になりきって、その目を通して人間社会を見ることもある。

 

そうすると、人間の目から見れば大事に飼われているペットも、人間の都合に振り回され、家という狭い場所での食事の内容や回数を決められ、しつけといって怒られ、ある時はほったらかし、ある時は溺愛されて多大なストレスを感じていることが分かる。

 

これだから野良猫や野生生物の目を通してみれば、人間の所行は悪魔に見えることもある。このように、そのものになりきって見ることは容易ではない。なりきっているつもりでも人間である自分の視点を捨てきれず、なかなかなりきれない。視点を変え客観性を身につけたつもりで我執を捨てきれない。

 

よく「人の立場になってみる」というが、本当にそのように見える人は、ほとんどいない。なりきれないからである。ではどうすればよいか。なりきるための訓練が必要であり、一度身についても常に磨く努力をしていなければ鈍くなる。北原白秋も毎日、庭に来るスズメにエサを与えながら二年半ずっと考え続け、ある日「私もスズメとまったく同じだ」と思い至ったという。それくらい長く深い思索にふける訓練が必要だということである。

 

われわれは人間社会の中にいて、当たり前のように人間しか見ず、常に人間に対してだけの価値観にとらわれている。つまり、エゴの塊なのである。あらゆるものになりきって多角な角度から洞察し、わが身に置き換えた客観性を身につける訓練を教育の中で実践すること。それが諸問題の解決につながる。

 

そして、その能力を発揮することこそが人間の存在理由につながるのである。

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人間の存在理由(重力の功罪8)第130回2008年9月2日大阪日日新聞掲載

我々人間は悲惨で残酷な現実に対し、極めて「鈍感」にできている。どんなに心を痛めることがあっても、それをリアルに肉薄したものとは認識しない。だからこの地球上のどこかで今も行われている戦争や残虐な事件を知り、まゆをひそめていても平静に日常生活を営んでいる。

「対岸の火事」あるいは「テレビのワンシーン」または「車窓の風景」のように目の前を通り過ぎるだけで実感を伴わない感じ方しかできない。そのように作られている。肉体を持たぬ重力から生物が生まれたのだから、肉体を持つものの痛みや悲しみなどの感情を分かるはずがない。間近に迫る恐怖や苦痛以外からは遠ざけられている。

もし、「遠く」が見えている現象を肉薄したものと感じ取れる能力を持ってしまえばどうなるか?

生物はすべて他の生物の苦悩を自分の身と置き換え、食物連鎖が成り立たなくなる。自分がもう一人の自分を殺して食べるという認識と実感を持つからだ。人間も同様に他の生物の細胞を食していることをためらうだろう。

そうならないように地上のシステムが構築された時点で生物相互の共感、一体感は排除され空白にされたのである。生物全体を一つのものとして見るならば、食物連鎖とは、まるで自らの手足を食べながら生きるようなものだ。遠い異国の戦争で誰かが亡くなるということは自分の体の一部がなくなることと同じことだ。

この考え方から遠ざけられているということを、はっきりと発見し理解するところに人間の存在理由がある。ここまで考え、到達するのは人間以外の生物の知能では不可能だ。この考えを基盤にした教育を世界中で実行すれば、ホロコーストが起こることも争いもなく、悲しい動物たちの生き方でさえ理解できるだろう。

そのための心の訓練が必要不可欠である。「人に思いやりを持て」とか「人を大切に」など、いくら叫んでも本質を変えることはできない。

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人間の存在理由(重力の功罪7)第129回2008年8月26日大阪日日新聞掲載

人間の生き方には(1)呼吸しているだけ(2)生きているだけ(3)価値ある生き方—の三つがあると説明したことがある(第11回参照)。これに重力の三原則を当てはめると非常に分かりやすい。

ニートやパラサイトあるいは仕事や生活に怠惰な者は(1)に属する。彼らの社会は家庭内であり、外側の社会への対応や規範能力に欠けている。親への求心に頼り、しがみついているので、自立させようとする親を攻撃したりする。唯一頼りにしている求心の糸が切れると思い、親が自分を守ってくれていることが分からない。全く三原則のバランスが崩れたのである。

その点では(2)に属する者は三つのバランスを正常に保つ状態である。まじめに働き、子どもにも一般的な教養を与え、規則を守り、周りから「勤勉な人だ」といわれる人たちである。この状態でやっと自然に生きる動物と同じレベルになる。つまり与えられた能力で必死生きるレベルである。植物でさえそうである。

重力への求心から地中に根を張り、太陽への求心と同時に重力に打ち勝つ対抗性から上へと伸びる。四季に応じて確実に規範を順守して生きている。本来、重力によって創られたものは、ここまでが限界である。しかし、我々人間はそれを超えた(3)の存在でなければならない。そのための人間であり、そのための存在なのだから。

大胆な説かもしれないが、食物連鎖からこの地上の間違いを発見し、それを止めることができるのは人間だけなのである。この地上をバランスよく調整し管理し保護できるのも人間だけである。長い歴史からわれわれは食物連鎖の残忍さに慣れ、当たり前のことだと思っている。それが自然であり、礼賛すべきことだと刷り込まれている。

けれど、アフリカのヌーの群れの中、肉食動物に襲われた母親の惨劇を目前で見ている子どものヌーの底知れぬ悲しみと恐怖。他の子どもの面倒は見ないヌーの性質から、容易に想像されるこの子どもの悲惨な末路。これらの出来事が賞賛されるべきことだろうか。

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人間の存在理由(重力の功罪6)第128回2008年8月19日大阪日日新聞掲載

もう少し分かりやすく身近な具体例を挙げて、重力の三原則がどんなに深く何もかもすべてと結びついているかを述べておこう。重力の三原則に照らすと「好き」という感情は求心性、「嫌い」というそれは対抗性、「好き嫌い」を理性でコントロールしようとする行為が規範性に当たる。

詳しく言い換えると、人を好きになるという心の動きは相手の心を求め、自分の心に引っ張り込み、その中に閉じこめようとする働きである。一方、人を嫌いになるということは、対立する心の働きである。不快感を避けようとしたり、危険から遠ざかろうとしたり、自分の心に発生した違和感から相手を寄せ付けないようにする心の働きである。

しかし、好き嫌いだけで判断し行動すると困ることが生じる。社会を構成する一員として未熟であるということになったり、集団行動をするには不的確な存在ということになる。そのため、好き嫌いという感情を理性で調整しなければならない必要性が生じる。それこそが社会の規範性なのである。

また、もう一つの例は生命の連鎖について—。人間も他の生物も、異性に求愛(求心)をし、それを維持するため他を寄せ付けない対抗が稼働し、子どもをつくり自分の種を残そうとする規範がはたらく。

子どもができた時点から、三原則の形が少し変化する。親は子を慈しみ乳や食物を与え、外敵から身を守り、子も親を求める求心性。親が子を外敵から守り、子は親の愛情を他の者より得ようとする対抗性。生活を維持するために親は規則正しく仕事をし、子どもは親から規則正しさを教わり規範性となる。動物の場合は自然のルールに従う規範性である。

動物の場合は人間よりも規則正しく、日の出と共に起き食物を探しルールを守る。それができなければ死ぬしかないからだ。人間以外の生物は三原則に忠実にバランスよく生きている。しかし、今、動物以下の人間が多くなっている。

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人間の存在理由(重力の功罪5)第127回2008年8月12日大阪日日新聞掲載

北京オリンピックが開催されている。スポーツを競うことは「自己との闘い」と言われる。しかし、突き詰めて考えれば肉体や精神以前に「重力との闘い」である。例えば、棒高跳びなどは、どれだけ重力に対して高く上がるかに挑んでいる。ほとんどの競技は、重力にあらがいながら肉体をいかに操るかに尽きる。

つまり、重力への挑戦であり対抗性である。また、一つでも多くのメダルを求め自国の国旗を掲げようとする精神は国民および家族への求心性によるものである。そのために猛練習し訓練のメニューを規則正しく消化し、体に覚え込ませる。その技能を瞬間に発揮させる行為は規範性によるものである。

同様に戦争においても敵と戦うことは対抗性であり、闘う理由は国や家族を守ろうとする求心性、軍隊の行動は規範性に基づいている。このように身の回りから地上の隅々まで重力の三原則が行き渡り機能している。森羅万象あますことなくこの三原則とつながっているのである。

ここまで説明すれば重力が基となってこの地球やわれわれが創(つく)られたことがおわかりいただけただろう。繰り返すが、重力の法則に基づいて創られたこの地上はすべてに間違っている部分がある。間違っているから世界のどの教育や政治、学問や哲学をもってしてもいまだに地上が救われていない。そればかりか羅針盤を失い浮遊しているのが現状である。

人間はどこから来て、どこへ向かうのか、まるで答えがない状態にある現在、出発点を示し、向かう方向を明確に説いているのが、この「人間の存在理由」なのである。誰もが、ふとしたときに「何かが違う。こんなものではない」と思うことがあるはず。それは、普遍的な理念に基づいた教育や政治が亡く不完全な世界に存在するからに他ならない。

世界の政治や教育の中心は、常に一つの軸に相対したものでなければならない。

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人間の存在理由(重力の功罪4)第126回2008年8月5日大阪日日新聞掲載

創造主を知りたければ自分を知ればよい。彼が自分自身を応用して人間を創(つく)ったのだから。ただ彼と人間の異なる点は数億倍も聡明(そうめい)なことである。彼の能力の下層の一部だけが人間との共通点だろう。では、それだけの能力がありながらなぜ自分と同じように聡明に創らなかったのか–創れなかったのだ–。

一つは、万物を創造できる能力と同様の能力を備えた脳を創るにはその大きさに問題がある。肉体を持たなければ容量に制限はないが、人間には肉体がある。そこに巨大な脳が必要であれば巨大な肉体が必要となり重力に邪魔され動くことすらできないだろう。無限に知恵が働く脳を与えたかっただろうが、私たちが今持ち合わせている脳の大きさが限界だ。

また、知覚、触覚、嗅覚(きゅうかく)、味覚、視覚、聴覚など五体を維持させる機能を備え稼働させるため、脳スペースのほとんどを占有されてしまい現状の脳では聡明なはたらきに向けてフル稼働することさえできない。もう一つの理由は、聡明であればあるほど恐怖の対象がはっきりした輪郭を持ち恐怖心が増大して自ら滅びかねないからである。

つまり、聡明でないほど恐怖心が希薄なのである。良くも悪くも若者が無鉄砲であるのは危険をリアルに感じるほど聡明でないからである。猫や犬が交通量の多い道路を横切ろうとするのも恐怖の対象が曖昧(あいまい)だからである。

動物は特に恐怖の対象に向けて調査、分析をし、回避するというような能力を持たされていない。食物連鎖を成り立たせ維持するためである。だから捕食者がいる付近に被捕食者が散在しているという状態になっている。

五感が鋭く運動能力が発達しているのだから常に捕食者と距離を置くことができるのに、そうはせずには両者が緊張を保ちつつ近くで寝そべっていたりもする。しかし、人間も動物も子を思う親心は同じであるし、眼前の死に直面した恐怖も同じである。

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