重力と人間Ⅱ 第215回2010年5月18日大阪日日新聞掲載

なぜ、人間は対抗性が強いのか? 人類が誕生してから長きに渡り、人間は肉食獣に捕食されていたと考えられる。二足歩行で走るスピードも遅く、鋭い爪や牙もなく闘うには不向きである。逃げるにしてもサルのように木登りが上手ではない。当然、四足の肉食獣にとっては格好の獲物となる。

人間はジャングルと平原の2手に分かれて逃避しながら生きていた。そのうち、平原に住む人間が棒を持ち、道具を使うことを覚えた。親指が他の動物に比べて物が掴みやすい構造になっている。その利点に気づき、棒を持って反撃し出した。

そして狩猟を覚えていく。狩猟活動により、外向けの力を得て外部と戦うことが主流となる。そうすれば経済的に良い結果をもたらし、女性から見ても魅力的であると知る。事実、そのような男性のみが生き残る確率が高くなった。

「男女に能力差はないが、社会変革や大発明を多く成し遂げてきたのは男性である。それはその話の通り、男性の方が攻撃性で上回っているからだ」と友人のKさんは言う。元は人間も動物と同じ食欲と性欲の二欲だけであったと考えられる。

人間には鋭い爪や牙や機敏さが無いことから、知恵が与えられていた。狩猟によって得た物を保存するようになったのは「知恵」があるからだ。そして、富を保存するようになり、「物欲」が発生した。物欲を満たすため、どんどん知恵を絞り出した。つまり、対抗性が限りなく磨かれていったのである。

知恵と欲が一体化し、文明文化が猛烈なスピードで発展した。他から奪い取るためには、さらに強力な対抗性が必要である。欲望を満たすための行動を取り続けるうちに「規範性」と「求心性」は置いていかれた。対抗性が伸び続けた結果、得た物を失いたくないという新たな欲望が生じる。そこでルール、法律を作った。

このように身を固めるようになると、命がけで生きるために発生した対抗性も必要ではなくなる。生命の危機がなくなれば突出した対抗性は必要でなく、元に戻ろうとする。基本的に勝る求心性に引っ張られ、どんどん沈下していく。現代は、この矛盾の中にある。

生命の危機がない時代に生まれた人間は対抗性が退化しつつある。しかし、対抗性から生じた物欲の社会である。対応困難を起こす人間がいるのは仕方がない。いずれにしても、3欲が行き過ぎ異常となっている現代。重力を超えた新しい教育に因る新しい精神で新しい地上を創意するべきである。

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重力と人間Ⅰ 第214回2010年5月11日大阪日日新聞掲載

人間には体重があり、物には全て重量がある。体重があるということは、外へ引っ張られる力より、地球の中心へと引っ張られる求心力が勝っているということだ。人間の精神も同じことで、何もしなければ、どんどん求心力が勝ち、対抗性や規範性が薄れてくる。例えば、刑務所で長期間服役していると、外に出た時どうしてよいかわからなくなる。病院などで長期間の療養生活を送った人も、五体満足であっても家に閉じこもっている人も同じである。

他者との対応困難を起こしたり、規範性をすぐに発揮することができない。決まった時間に家を出ること、仕事や学校に遅れないこと、決められた作業をこなすことなどが極めて困難となる。無理やりにでも、行動を起こし規範性と対抗性を身につけていくしかない。

がむしゃらに行動していくうちに、何でもできるようになっていく。大変なことではあるが、思いきって最初の一歩を踏みださなければ、内に向かう求心性の働きばかりが、強くなってしまいバランスを取り戻せない。 本来、人間の男性は対抗性が主体となっている。

分かりやすい例は戦争である。家族への思いという求心性を持ちつつ、軍の規律を守るという、規範性も備えながら戦うことが主体となっていく。ところが、同じように食うか食われるかの争いの中に存在している動物の場合は、規範性が主体となっている。人間の争いは、自分や自国の外側にある敵に対して戦う。動物の場合は自分たちを生かしている自然を守っていくための規範に忠実である。

その為に必要以上に捕食をせず自然のサーキュレーションを壊さない。もちろん、子供に対する深い愛情という求心性も持ち、対抗性によって天敵などから子供を守る。同じ要素を持ちながら、主体となるものによってずいぶん違うものである。こう考えてくると、外側のものを敵対する意識が強い人間は、最も危険な生物である。

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精神症状と重力の三原則第212回2010年4月27日大阪日日新聞掲載

対人関係において孤立し自分だけの世界に閉じこもる者、内面優位の現実離脱者、現実との生きた接触を失う者が、30年ほど前から増加している。私が教えていた頃でも中学生の5人に1人が「引きこもり気味」だった。程度の差もあり、なぜこんな風になるのかわからなかった。

長い年月の課題でもある。元大学院教授のS氏は「男は争うことを目的として存在する。戦争が無くなった我が国では、男性は女性化していく。その為、気迫や覇気が衰え、本来の男性像から離れていく。」と言う。

そこで、重力の三原則である求心性、対抗性、規範性をあてはめてみた。求心性は内へ向かう力であり心である。これに対抗性(対向性)が働かなければ、どんどん内へと向かう。人間の精神も同じである。外への力や心が働かなければならない。重力の三原則によって人間を含む地上の全てのものが作られたというのが私の説である。

この3つがバランスよく保たれることが正常である。地球そのものが対抗性を無くしたら、規範性である自転や公転が崩れ、正確さを欠くだろう。1年365日、1日24時間では無くなり、求心性だけが残り停止状態となる。人間に置き換えると、家に閉じこもり、学校や会社に行くべき時間になっても外へ出ることを拒むだろう。

つまり規範性を無視していることになる。他者との対応が困難となり、対抗(対向)力を欠いている状態である。残る求心性は、他に求める心ばかり働き、どんどん拡大される。いわゆる「引きこもり」状態である。人間だけでなく動物を観察しても同じ状態である。

飼い主に心を求め続ける犬が、常に虐待を受けたとする。犬は求心を諦め、対抗的になって咬みついたりする。逆に、常に可愛がられた犬は、咬みつかず誰にでも尾を振って心を求める。このように精神と重力の三原則は結びついている。

このままでは私達は内側から滅びる。地球が止まり縮小された挙げ句、爆発するように。

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人間が一番遅れている第199回2010年1月26日大阪日日新聞掲載

文明や文化が進んだというが本当だろうか? 「進む」という言葉が「終わりに向かっている」という意味を含んでいるなら合っている。生活水準が上がり飽食になり便利な世の中になった。一方、栄養過多と運動不足で病人は増えている。さらに、医学の進歩により寿命が延び世界人口は絶対数を超えている。

増えすぎた種は生態系の均衡を崩す。まして人間は大量の資源を手当たり次第に食い荒らし、大量のモノを生産している。あらゆる大量のモノを作るということは、大量のごみを生産し続けているということである。そして、地球を破壊し続けている。おまけに、核兵器という地球を何十個も破壊させるものを用意している。

パラドックス的な見方であろうが明らかに我々は「後退」している。「進む」とは原点に回帰することだ。知恵と思考を駆使し原点にたどり着こうとすることこそがベストなのだ。原始時代の裸で弓矢をもっていた頃に戻れば自然破壊も生態系を狂わせることもない。そして最も長く地球を維持し、人間を含む全ての生物を生き長らえさせることができる。そもそも人間に毛がなく身一つで生きていけない程、下等なことが問題なのである。

動物は衣服などなくても適度に生え替わる素晴らしい毛皮が備わっている。動物は毛皮だけで生涯を過ごす。生え変わった毛が地面に落ちると、分解され土壌が豊かになる。どれをとっても地球に有益であって無害である。

道具や武器としての爪や牙もある。人間には何もない。仕方なく衣服や道具や武器を作ってきた。地球にとってのごみを限りなく生産し続けている状態だ。人間以外の生物は自分たちが生き長らえさせる方法をよく知っているのだろう。だから必要以上の物を欲せず自分たちの生きる場所を汚さず荒らさず大切にしている。その逆のことをして間違いを犯しているのは人間だけである。

こう考えてくると、実は人間は最も遅れた生物だ。創世記において他の生物は優れた知恵を持っていたがために創造主に能力を抑制されたのかもしれない。すぐに自滅するような、愚かで僅かな知恵しかない裸の弱い人間は能力の制限を受けず放置されたのだろう。地球破滅へと加速し続ける人間を見て、今頃「やっぱり愚かな者を放置するべきでなかった」と悔やんでいるかもしれない。方向転換して名誉挽回(ばんかい)しなくては!

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全ての生命は一枚の岩板から第198回2010年1月19日大阪日日新聞掲載

先日、車に轢かれたイノシシが激痛と不安から暴れ狂い射殺された。そのイノシシの立場から見れば、人間が「車」という物に乗り自分を襲い、骨が折れ激痛が走り、再び人間に襲われると思ったのだ。死に物狂いで抵抗するのは当たり前。人間によって居場所を追われ、食べ物もなく探しに出たら、人間が操縦する「車」に命を奪われそうになったわけである。

悲しいことの連続である。麻酔銃で眠らせ病院に連れて行き回復してから野生に戻してやるべきだが、戻る場所すら人間が奪ってしまった。哀れな存在だ。この哀れな存在を殴打し射殺するとは教育上、極めて悪である。

私たちと動物には大きな差はない。人間とチンパンジーの遺伝子は1パーセントも差異がない。異なるのは親指の付き方。それによって器用に物が操れるようになったチンパンジーが人間であるだけだ。もう一つは全身が毛で覆われているか、いないか。人間だってそれほど長くないだけで体毛は全身にある。

生体や社会生活においても人間と同じようにオスがメスを大切にしたり群れを作ったりする。ということは感情も人間と同じように豊かである。だから「痛い、悲しい、苦しい、辛い、不安」なども同じように感じる。

人間と動物は大きな一枚の碁盤割りされた岩板から分離されただけである。同じ板の上だから共通したものを持つ。無数の碁盤目の一つに「人間」と表示され隣の目には「サル」、その隣は「イノシシ」というように地上の生物の種類が全て一つ一つの目に表示されていると考える。

「人間」とかいてある目を食パンをちぎるように、ひと固まり切り離し粉々にした一粒が自分である。「イノシシ」も同様である。表面のほんの一部が少しだけ異なるだけで本質は全部同じだ。正体と本質と実態は一枚岩である。これが生命あるものの出発点だ。「人類みな兄弟」という言葉があったが、違う。「生命あるものはすべて兄弟」なのである。

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金に隷属する知識と思考Ⅱ 第174回2009年7月28日大阪日日新聞掲載

どんなことにも3原則というものがある。非核三原則、憲法の三原則とか。3という数字はまとめるのに適しているようだ。人が生きていく上にも身につけるべき3原則がある。①家庭知識の原則②学問知識の原則③社会知識の原則である。①は日常生活・衣食住・家族の在り方などの知識である。これは年齢を増すにしたがって身につけるべき内容も増していく。

例えば、幼い頃は自分でトイレに行ったり着替えたり食べることができればよいが、青年期になると家事を手伝ったり家族を思いやったりすることができなければならない。大人になれば家族全体の調和を図り生活を支える必要がある。段階を追って内容が拡大されていく。一人前の大人になるということである。

ここまで導いていくのは親の役割であり、子供が幼い頃の家庭知識しか持たずに育てば親の責任である。そんな子供は最低限の自分のことしかできないので親が一生面倒を見ることになる。最近、そのような傾向に成りつつある。②は学校や自分で学習する知識であり、③は一歩家を出たところから始まる社会生活の知識である。

学生の時は②も③も学校と家庭で身につける。また、周囲の大人すべてが教えることも可能である。最近はよく大人が「勉強しなくても生きる力があれば」と口にする。これは誤りである。生きる力をつけるには物事をよく理解しなければならない。物事を理解するには思考能力が必要となる。思考能力は何もせずには養われない。

学生の時に学校や家庭での学業を通し身に付いていく。しかし、勉強の好きな学生は少ない。そこで親や教師の役割が重要となる。基盤となる勉強を繰り返しさせ最低限の知識を得るように導き、自ら考える能力をはぐくむ。そのかかわりの中で社会知識も養われていく。

こう突き詰めていくと教師であり親であれ、会社員であれ社会人として大人の在り方が以下に社会に多大な影響を及ぼすか、分かっていただけるだろう。現代の若者批判をしている大人は、自分の批判をしているに等しいことになる。

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死後につながる生命の平等第172回2009年7月7日大阪日日新聞掲載

パスカルの2分の1の賭け論というのがある。死後の世界が在るか無いかという問いにパスカルが答えたものである。

「在るか無いかは死んでみないと分からない。しかし、無いと信じてやりたい放題、悪を重ね一生を終えた後、もし死後の世界があり裁きを受けるとすれば取り返しがつかない。悪行がたたり、現世の時間にして1億年以上も地獄に居続けなければならない結果になるとしたら、ぞっとする。それなら在ると信じて正しく積善の生涯を過ごせば安心してこの世を去ることができる」

なるほど、そうかもしれない。

15年前、2年ほど悩み続けたことがある。ソファに座ってテレビを見ていて、ふと足元に目をやると飼い猫が私を見上げていた。この猫が私で、私がこの猫であっても不思議ではないのでは? なぜ私が人間で、この子は猫なのか。反対でもよかったのに、偶然なのか。もし一度きりの人生なら、猫の一生涯、人の一生涯、あまりにも不公平ではないか。

そんなはずはない—これが悩みの始まりだった。それから種々の現象やさまざまな事を関連づけて考えてみた。地上が誕生して滅亡するまでの時間と、地上に存在するすべての生物の寿命を足した時間とは同じではないだろうか。そして人に生まれ、次に他の生物に生まれ変わり、繰り返すとすれば極めて公平ではないか。

最初に人に生まれ、その行き方によって選択されて、次に人の足元にいる犬や猫に生まれ、また少し離れて自然に生きる野生生物として生まれるのではないか。同じものとして生まれても、人によっても差があるように、その境涯には差がある。

これはそれ以前の生き方が反映しているのだろう。このように一つ一つ異なる生物に生まれ変わることが在るか無いかは分からない。しかし、冒頭の2分の1の賭け論のように私は在ると信じて生きている。考えれば考えるほど恐ろしいことだが、それが生命の平等というものである。

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教育の原点第163回2009年5月5日大阪日日新聞掲載

天地創造された自然がすべて正しいとするのはどうか。自然について教育するとき、自然は正しいという前提でさまざまなことが教えられている。しかし、本当に正しいのかどうかもっと疑問を持つべきである。人間は何でも人智を超えたモノを正しいと信じやすい。信じ込んでしまうと、それ以上何も考えない。自然という壮大なテーマを与えられているのに、疑問さえ持たず、そこに存在する物の事実のみを教えるだけでは教育とは言えない。

例えば、食物連鎖について。生物は植物を底辺としたピラミッド型を形成しているのだと教えられる。自ら栄養分を造れる植物の数が圧倒的に多く、消費する者たちは数が少ない。その事実だけ伝えたところで何になるのか。すべての生物が生き抜こうとする背景には、他の不幸を自分の幸福に変える行為がある。植物であろうと動物であろうと、他の生物の細胞を食べながら生きている。つまり、他の生物の死と引き換えに食欲を満たすという幸福感を得ているのだ。この事態に疑問を持ち、真剣に向き合えば何を教えるべきなのかが見えてくる。また、逆に素直に受け入れるものもある。命懸けで子どもを守り育てる動物の親の姿、子供を自立させるための厳格さなどからは、むしろ積極的に学ぶべきである。親が子供を虐待している報道が後を絶たない。彼らは動物以下である。思考する能力のある人間がすることではない。そのようなニュースを見るたび教育の大切さを痛感する。

このような点を源としたものを教育の出発点に取り上げるべきではないか。いくら計算ができ英語が話せても、わが子に手をかける親になってしまっては何の教育も受けていない動物以下である。勉強をした人間としない人間の違いをカントは「針のある時計と、針のない時計」と言った。無勉強は、時計なのに時間を指すことができないことに等しく、人間なのに動物以下と成り果てる。

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教育の定義第162回2009年4月28日大阪日日新聞掲載

これまで「人間による人間のための人間教育」だけが行われてきた。古代から現代まで争いが続いているのは、その教育が不完全であることを意味している。もちろん、教育は人間がつくり上げていくしかない。

しかし、義務教育の指導要項や科目ごとの内容を増やしたり減らしたり、いくら変えたとしても完全な教育にはほど遠い。向上した人格形成ができていれば机上の学問などいつでも身に付くのである。本当に教育すべきなのは人間としての在り方、尊い人格を持つことである。

そのためには既存の視点や考え方を捨てなければならない。人間の作り上げた常識や人間中心の哲学では限界が来ている。ルソーは「自然は書物」と言ったが、動植物の成長過程や特徴を知るだけでは何の益にもならない。それらを知った上で、その仕組みや構造、他とのつながりについて考案し、疑問を持つ。動植物の側から人間世界について考える。

そうは言っても人間はなかなか既存の思考を変えられず、反対側の立場に立って見ているつもりが、全く自分側の立場から動いているものだ。このような概念を突き破っていく教育が望ましい。例えば、以前紹介したように宇宙全体から見れば惑星や恒星を形成している岩石の方が、生物の命よりも重要なのだというような視点。男と女、雄と雌さえいれば無限に増殖する生物に比べ、宇宙を構成するものの有限さに気付く考察。物事を「考える」ということは簡単に言い表せるような軽々しいものではない。

深く物事をとらえる精神がなければ不可能である。その精神を養うには、小さな狭い人間社会の目線を超えること、欲に縛られた人間世界から逸脱した価値ある世界へと目を向けること、である。さまざまな問題や困難なことが待ち受けている現代を生き抜き、救う答えは、このような新たな教育の確立にあるはずだ。

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固定観念は大きな恐怖第156回2009年3月17日大阪日日新聞掲載

世界のどこに在(い)ても「生あるものすべて自分と同じ」である。と言うことは極めて大切であるし、人間教育の到達点でもあるといえる。私たちが自己の中に所有する自我意識、概念、自己観念から自分の世界観を形成させている。そこから外れたものは死となる。人間も動物も同じであるが、自分から距離や認識が近い順番から、大切な相手とそうでない相手に、無意識のうちに分けてしまっている。

言い換えれば、自分の知らない土地や、外国のどこかに在る人たちが、苛酷(かこく)な状態にあっても、あまり悲観的にならない。種が異なるとさらに軽視した存在となる。人間の足元にいる犬、猫、馬からキツネと遠ざかるにつれ、かなり希薄なものになっていく。人間の中にあって小グループから大グループ、そしてグループ同士がぶつかり合う。

他の生物も同様である。つまり縄張り意識とその概念は、私たち生物にインプットされたもので、この障害を克服しなければならない。この克服とは、会得、体得、悟ることになる。世界の至るところで発生する紛争から戦争、また自分たちのところさえよければ、隣は不自由でもよいとする自我意識。北朝鮮はミサイルを打ち上げようとしている。他の核保有国も同じだが、世界中の至るところに自分が在ると知れば、ミサイルなど造らないし、持たないだろう。

自己に内在する概念を打ち破らなければ、大きな恐怖である。これを打ち破りその先には自分が在ると知ることが、核を放棄し、一つのものを分け合い、地上における精神が豊かになる。また人間が教育として目指す頂上でもある。個人が持つこれらの特色に気が付き、自覚し、恐れなければ人間としての資格がない。

動物はプログラムされた分で、その生涯を終わる。疑問を持つことが許されないからだ。だが、私たちには疑問を持つ知恵がある。さもないと、人間自らが人間を滅ぼすだろう。

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