死後につながる生命の平等第172回2009年7月7日大阪日日新聞掲載

パスカルの2分の1の賭け論というのがある。死後の世界が在るか無いかという問いにパスカルが答えたものである。

「在るか無いかは死んでみないと分からない。しかし、無いと信じてやりたい放題、悪を重ね一生を終えた後、もし死後の世界があり裁きを受けるとすれば取り返しがつかない。悪行がたたり、現世の時間にして1億年以上も地獄に居続けなければならない結果になるとしたら、ぞっとする。それなら在ると信じて正しく積善の生涯を過ごせば安心してこの世を去ることができる」

なるほど、そうかもしれない。

15年前、2年ほど悩み続けたことがある。ソファに座ってテレビを見ていて、ふと足元に目をやると飼い猫が私を見上げていた。この猫が私で、私がこの猫であっても不思議ではないのでは? なぜ私が人間で、この子は猫なのか。反対でもよかったのに、偶然なのか。もし一度きりの人生なら、猫の一生涯、人の一生涯、あまりにも不公平ではないか。

そんなはずはない—これが悩みの始まりだった。それから種々の現象やさまざまな事を関連づけて考えてみた。地上が誕生して滅亡するまでの時間と、地上に存在するすべての生物の寿命を足した時間とは同じではないだろうか。そして人に生まれ、次に他の生物に生まれ変わり、繰り返すとすれば極めて公平ではないか。

最初に人に生まれ、その行き方によって選択されて、次に人の足元にいる犬や猫に生まれ、また少し離れて自然に生きる野生生物として生まれるのではないか。同じものとして生まれても、人によっても差があるように、その境涯には差がある。

これはそれ以前の生き方が反映しているのだろう。このように一つ一つ異なる生物に生まれ変わることが在るか無いかは分からない。しかし、冒頭の2分の1の賭け論のように私は在ると信じて生きている。考えれば考えるほど恐ろしいことだが、それが生命の平等というものである。

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