人間の存在理由(重力の功罪8)第130回2008年9月2日大阪日日新聞掲載

我々人間は悲惨で残酷な現実に対し、極めて「鈍感」にできている。どんなに心を痛めることがあっても、それをリアルに肉薄したものとは認識しない。だからこの地球上のどこかで今も行われている戦争や残虐な事件を知り、まゆをひそめていても平静に日常生活を営んでいる。

「対岸の火事」あるいは「テレビのワンシーン」または「車窓の風景」のように目の前を通り過ぎるだけで実感を伴わない感じ方しかできない。そのように作られている。肉体を持たぬ重力から生物が生まれたのだから、肉体を持つものの痛みや悲しみなどの感情を分かるはずがない。間近に迫る恐怖や苦痛以外からは遠ざけられている。

もし、「遠く」が見えている現象を肉薄したものと感じ取れる能力を持ってしまえばどうなるか?

生物はすべて他の生物の苦悩を自分の身と置き換え、食物連鎖が成り立たなくなる。自分がもう一人の自分を殺して食べるという認識と実感を持つからだ。人間も同様に他の生物の細胞を食していることをためらうだろう。

そうならないように地上のシステムが構築された時点で生物相互の共感、一体感は排除され空白にされたのである。生物全体を一つのものとして見るならば、食物連鎖とは、まるで自らの手足を食べながら生きるようなものだ。遠い異国の戦争で誰かが亡くなるということは自分の体の一部がなくなることと同じことだ。

この考え方から遠ざけられているということを、はっきりと発見し理解するところに人間の存在理由がある。ここまで考え、到達するのは人間以外の生物の知能では不可能だ。この考えを基盤にした教育を世界中で実行すれば、ホロコーストが起こることも争いもなく、悲しい動物たちの生き方でさえ理解できるだろう。

そのための心の訓練が必要不可欠である。「人に思いやりを持て」とか「人を大切に」など、いくら叫んでも本質を変えることはできない。

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