人間の存在理由(重力の功罪7)第129回2008年8月26日大阪日日新聞掲載

人間の生き方には(1)呼吸しているだけ(2)生きているだけ(3)価値ある生き方—の三つがあると説明したことがある(第11回参照)。これに重力の三原則を当てはめると非常に分かりやすい。

ニートやパラサイトあるいは仕事や生活に怠惰な者は(1)に属する。彼らの社会は家庭内であり、外側の社会への対応や規範能力に欠けている。親への求心に頼り、しがみついているので、自立させようとする親を攻撃したりする。唯一頼りにしている求心の糸が切れると思い、親が自分を守ってくれていることが分からない。全く三原則のバランスが崩れたのである。

その点では(2)に属する者は三つのバランスを正常に保つ状態である。まじめに働き、子どもにも一般的な教養を与え、規則を守り、周りから「勤勉な人だ」といわれる人たちである。この状態でやっと自然に生きる動物と同じレベルになる。つまり与えられた能力で必死生きるレベルである。植物でさえそうである。

重力への求心から地中に根を張り、太陽への求心と同時に重力に打ち勝つ対抗性から上へと伸びる。四季に応じて確実に規範を順守して生きている。本来、重力によって創られたものは、ここまでが限界である。しかし、我々人間はそれを超えた(3)の存在でなければならない。そのための人間であり、そのための存在なのだから。

大胆な説かもしれないが、食物連鎖からこの地上の間違いを発見し、それを止めることができるのは人間だけなのである。この地上をバランスよく調整し管理し保護できるのも人間だけである。長い歴史からわれわれは食物連鎖の残忍さに慣れ、当たり前のことだと思っている。それが自然であり、礼賛すべきことだと刷り込まれている。

けれど、アフリカのヌーの群れの中、肉食動物に襲われた母親の惨劇を目前で見ている子どものヌーの底知れぬ悲しみと恐怖。他の子どもの面倒は見ないヌーの性質から、容易に想像されるこの子どもの悲惨な末路。これらの出来事が賞賛されるべきことだろうか。

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