普遍教育実践講座第256回「金銭哲学」

身につけるべき哲学や学問は、自分の人生に役立つものに限る。言葉だけが先行する哲学や学問は、本棚の飾りである。

小学校長をしていたYさん。校長になる前は当然教壇に立っていた。算数の中に「元金×利率×期間」の計算があり、もちろん教えていた。机上の計 算には長けている。ところが、Yさんは買い物好きで「激安」の札に弱い。定価8万円の服が「特価5万円」と表示されていると、買わなくては損をする気持ち になるらしい。

所持金が無いと、近くのサラ金業者に飛び込んで10万円を借り、その服を買った。余った5万円は、3日間の内に消えて無くなった。約20年前の 事なので、利息は年72%。1年後に四苦八苦しながら、17万2千円を返済した。計算上では、5万円の服が利息と併せて計8万6千円となり、元の値段より も高くなる。

安い買い物ではないとすぐ理解できるはずである。しかも、哲学的な計算では5万円の物を17万2千円で買った事になる。動機が生んだ総計だか ら。このような事が長年に渡り、多くの買い物をしたYさんは、最終的には破産してしまった。机上の数字は静だが、欲望が絡むと動となる。そして、現実のお 金は日々動き変化している。

商取引では借金も止むを得ない場合もあるが、明確に生きた数字を分かっている経営者は少ない。株式なども、実際に現金を持参して買うべきであ る。そうすれば購入額も電話やネットで買う額より、おそらく下回るだろう。裁判所に自己破産を申しでる大半の人も、生きたお金を理解していない。

本来、金銭の基盤は物々交換である。汗水を流し作った作物を他の物と交換する。汗と汗の交換が基本である。公務員、会社員、政治家などは、直接 資金を用立てする訳では無く、家計や事業のお金に困る体験をする機会がない。自ら汗水を流して得るものではなく、何かの証明書を発行したり、誰かと話して いることがほとんどで、職人のように実働を伴うものではない。

特に政治家などは、他人のお金を手にして支払っている訳で、自ら苦労して得たお金を支払っていない。本当に苦労した者が政治家になるべきであ る。大臣の全員が、1年間を年収350万円で働き生活をしてみる研修が必要だ。そういう意味では、毛沢東が行った文化大革命を理解出来る部分もある。机上 の学問だけの有識者に、畑仕事をさせたのだから。

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普遍教育実践講座第255回「自己の精神を発明せよ」

特許や実用新案など約70件以上を考案し取得してきた。常に前向きに新しいことを考えている結果である。新しいことを考えて行く過程で、ある心の作 用に気がついた。「物・言葉・精神」である。「物」は目に見える。「言葉」も文字に変えれば見える。しかし、「精神」は目には見えない。思考したもの、あ るいは考えだしたことを言葉にしなければならない。

「精神」を言葉に変換する作業はかなり難しい。「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」という有名な文章は、まさに優れた言葉の組み合わせであって表現の発明である。作家たちが、常に新しい表現を考えている行為は考案であり、表現の発明を試みる姿であろう。

では、精神の発明について述べよう。例えば、食物連鎖を形にするとピラミッドになる。数の最も多い1番下から植物・昆虫・小動物・草食動物・肉 食動物という順である。ここまでは現象であり知識である。しかし、昆虫にあるいは小動物に感情があるのかと自問し分からないから飼って観察してみよう、と 精神の考案を試みる。

観察し始めると、思いやりの心を持たないと相手の心を心眼で捉えられないとしる。それは、知識ではなく新しい自己の発見となり発明だと言える。 つまり、そのように埋蔵され眠っている精神を目覚めさせる行為が、良心の開発をする作業となる。そして、自分の精神の中から、新しい心の発掘と発見を繰り 返し行う。それを継続し止めないことに意義がある。そうすることによって、自己の中に新しい心が確立する。

その心を人に伝えることは難しい。人は自分の体験に裏づけされた言葉しか、本当は把握していないからだ。殆どは言葉の表面をなでるようにしか理 解していない。また、深い感情を表現する言葉は辞書に無いことが多々ある。だから、自分の心に近づかせるため、既存する幾つかの言葉を集めて組み立てなけ ればならない。

表現の考案、つまり発明となる。最終的には、他の感情を推し量ることができるのは、自己が内蔵する深い慈愛と鍛え上げられた良心という心眼であ る。頭や理解力ではない。だから薄情な人間は、良心を持たず「他の心の痛み」を感知できない。他の哀しみや痛さを知るには、自己の心の深浅度が鍵となる。 このような事に気づくことも、また発明なのかも知れない。

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普遍教育実践講座第254回「人間の勲章」

この社会には、勲章や褒賞の種類がたくさんあり勲章年金などもある。それらが、趣味の延長線であるプロスポーツの世界や簡単に捉えれば「目立ちたが り」の芸能界の人間に与えられている。特に、多額な契約金を出し選手獲得するスポーツ界。丸い球ばかり追いかけているが頭の中身はどうなのかと疑う。

マスコミがもてはやし有頂天になっている芸能界とスポーツ界。一方では、まともに勉強して一流大学を出ても薄給から始まる会社勤め。就職が出来 ないことが多々ある現在。生活に追われる若者たちは、家庭を持つことさえできない。にもかかわらず、貧困が分からない政治家たちが、この上さらに消費税を 上げようとしている。まるで喜劇を見ているかのようだ。

そんな中で、国の心として本当に勲章を与えたい人達が存在する。あの名馬「オグリキャップ」の子馬が、初戦レースで骨折し薬殺寸前であった。た またま知ったある男性が「殺さないでくれ、私が世話して育てる」と言って10年が過ぎた。その男性は、今も広島の片田舎でその馬と暮らしている。彼は馬を 引き取るまで何も仕事をしておらず細々と生活していたが、その日から馬に食事を与えるため、決して若くはない今でも昼も夜も働いている。

また、終戦直後、孤児となって痩せ細った子供達が公園にいた。私の父が見付け、木炭トラックの荷台にその子供達を乗せ家に連れ帰った。我が家に も少量の食べ物しか無いのに、子供達を風呂に入れ、わずかな食事を与えた。父は、そのような事を頻繁に行った。お蔭で、私たち兄弟はひもじい日々を送った ものだ。

やがて、父は結核菌が肋膜に入り終戦から4年後に他界した。当時 3千円のペニシリンが買えなかったばかりに。46才の若死であった。彼らは、自らを犠牲にして他への思いやりを実践している。利益ばかり追い求める冒頭の 人間とは別世界の人間である。華やかな世界とは、かけ離れている。むしろ陽の当たらない路地裏のような人生だ。

しかし、このような真に優しい者へこそ、勲章を与えることが、まともな社会ではないだろうか。このような者を取り上げて褒賞の対象にと、繰り返 す国家が良い国づくりではないだろうか。理念や哲学を持たないから、取り上げるものがなく、スポーツや芸能で時間の空白を埋めているに過ぎない。きっと、 メデイアに優れた人材がいないのだろう。

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普遍教育実践講座第253回「橋下知事へ直訴(最終回)」

子どもたちが自ら、善や正しいことを正しいと判断出来る教育を始めてもらいたい。大人が真に正しいことを判断し実践していないから、当然子供たちには分かるわけがない。その子供たちが大人になって同じ事を繰り返す。今の政治家たちの言行動は茶番劇であり、全く責務感がない。

また、 これまでの教育者たちは何をしてきたのか? そこには深い考えを模索した痕跡がなく、全く無能である。物事や現象が錯綜(さくそう)し、何が正しく何が間違いかをより分ける能力を持たない国民と政治。とんでもない日本になってしまったものである。

山積みとある目に見えない間違い。心ある者が責めを受ける社会。例えば、涙して無心を頼んだ者が、5年間放置し、返金を要求されると「貸した者が悪い」と言って居直る始末。また、E博士は化学調味料や香水に敏感に反応する。ずいぶん周囲から変わっていると思われたようだ。しかし、本当におかしいのは人工的なものになじみ何の反応もしない私たちの方である。

我が家の動物たちも同じように化学的なものは受け付けない。私達の身体が無理をして化学食品を受け入れているだけだ。自然に近づく食を追求するべきなのに、毒のような添加物を多量に混入し、おいしさを追求しているのが現状である。だから壮年期になると、種々の病気となって現れる。

反して、E博士の身体は、自然を維持しようと頑張っている事になる。人間が極悪な環境汚染を止めず自然破壊を発生させ、自然の中に食べ物を求められない動物たちは、市街地に食を求めて出没する。それを悪者が現れたように殺す。間違いは人間の方にあるにもかかわらず。こんな簡単なことも分からない国である。

彼らは自然の恵みしか頼れない存在である。その自然を人間が、どんどん消滅させている。他の生物を死滅させるのは自分達の死滅を意味する。世界人口が90億になろうとしている。そこで、少子化だと言って子供を産ませようとする。視野の狭い政策である。私たちは地球という船に乗っている。群雄割拠の時代は昔に終わった。

子供を増やし財源を得る前に世界が滅びるだろう。教育が向き合う相手は、隣国でも中東でも無い。創造者である重力だ。そこに対峙(たいじ)しなければ、人間だけが使命とする教育の道は開けず、世界が右往左往し滅びるであろう。

繰り返すが、この道に沿った教育を実施すれば地上にある全ての問題が解決することは必至である。このシリーズで述べた「である」調の無礼を知事にお詫びしたい。と、同時に心から教育革命をお願いしたい。

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普遍教育実践講座第252回「人間の存在理由」

三次元に誕生した私達は、二次元の印刷物「お金」を世界中で追い求めている。そのためには、生物の身体的苦痛や心の働きを無視して止まない。これまでの唯心論と唯物論は、「物質精神」の中で問われ追求されてきた。そこには答えなど無い。その理由は、人間の中だけで探索しているからだ。だから、答えがないまま放置されている。何にも勝るのが「生物的唯心論」でなければならない。

昨夜、東京の大きなレストランは、ほぼ満席であった。種々の肉料理を、大勢の人たちが食べている。メールをしながら食べる人、口論しながら食べる人。ふと、残酷な光景が頭の中に浮かんだ。地下一階に沢山の生きた動物が檻に入れられ殺されると知り、あちこちで悲鳴を上げている。一階に運ばれ殺され肉にされて、二階のレストランに運ばれる。そこで大勢の人たちが、ワイワイとその肉を食べている。

悲痛を叫ぶ地下にいる動物たちの存在を、誰一人思いやる者はいない。場所が異なるだけで、これと同じ状況が世界中で日々繰り返されている。帰りの新幹線では、芸能人が毛皮の襟付きの衣服を着ていた。動物が生きたまま皮ごとはがされた毛皮である。その芸能人はゲームに夢中だった。血の涙を流して生きたまま皮をはがれた動物の姿が、彼の首回りを暖めている。

このようなことを、何とも感じない事が、「物質精神」である。また、動物に触れた時、自分の衣服の素材が静電気を発し、ビックリした動物が攻撃されたと思い、かみつくことがある。これを、何もしないのにかまれたと思う人間が多く、かんだ動物を半殺しにする者もいる。動物には、静電気など分かる知恵が無いので分からないことを理解してやらねばならない。

世界中の一人一人が、自分の中に在る「物質精神」と対峙(たいじ)し、新しい「生物精神」を自己の中に確立する教育をすぐに実践するべきである。「そんな事を言えば、肉を食えず生きられないではないか」と反論されるだろう。そうだ。自ら滅びることが究極の解決となる。だが、生まれたからには生きねばならぬ。この狭間を考え解決して生きることが、人間の存在理由である。

宇宙ではゼロが総計である。循環すなわち様々な生物に生まれ変わることも、総計ゼロの概念である。どの生物に生まれても、安心できる人間になっておくべきである。

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普遍教育実践講座第251回「橋下知事へ直訴-11-」

「生物精神」を完成させようとすることは、責務と使命を追い求めることに尽きる。そのためには、人間以外の動物の心と目をとおして全てを見ることで ある。真理に対する責務があれば、環境破壊などしない。その教育を世界中が実践するべきであるが、いまだ見たことがない。ということは、真に善人が存在し ないのである。

世の中が便利になるにつれ、「物質精神」すら希薄になり大人が子どもを殺すまでに至った。原始人にも劣る浅薄さだ。原因の一つに、個人の権利ば かり求め社会制度が個人へ過保護となり求心性が弱くなったことが挙げられる。更に、思いやる心も低下している。それに比べて、動物の世界は求心性が強く心 が豊かである。

以前の報道に、イルカの子供が死んだ親イルカを、群れから離れないように何十キロも胸で押し泳いでいたというのがあった。また 両後ろ脚の骨が砕けたライオンの子供を、母ライオンが口でくわえ抱こうとするができず、移動する群れから離れゆく子ライオンを振り返りながら歩く。距離が 次第に遠くなり、見えなくなった母の姿を追う子ライオン引きずる脚跡の2本の線が、大地に痛々しく残っていたというのもあった。

その後、きっと他の動物に殺されただろう。そんな時、人間が自然破壊しなければ、ライオンの群れは移動しないで済んだと心痛い限りである。私達がサッカーや野球を見て、はしゃいでいる傍らにも同じようなドラマがある。

川の土手から1.5メートル下の幅10センチのコンクリートへ、親ネコが飛び降りエサのような小さな物をくわえ、また飛び上がり子猫に与えてい る。脚を滑らせたらはい上がれない。母ネコは、繰り返し飛び降りてはエサを子猫に運び、自分はそこに残る匂いだけを舌で舐め我慢している。

また、ある時、両後ろ足を車にひかれたネコが、やっとの思いで道路脇の草の茂みに身を隠した。が、カラスに追われ、前足だけで逃げたが後部を食 い千切られ、翌日には下腹部から後は殆ど骨だけとなり、それでも這い逃げる最中に見付けた。服で覆い、抱き上げて病院へと運んだが、ウジが下腹部に入り込 み治療が不可能との事。せめて安楽死を求め依頼した。

「人間を許して」とバスタオルで包み込んで、その死体を抱いてやった。「君も私も、人生はたった一度限りなのに」と。動物と真摯(しんし)に対 峙(たいじ)し、地球を1つと考えられる人間は、絶対に核を使ったり自然破壊をしたりはしない。宇宙の唯一の仲間である他の生物が生きられないということ が、自分の身に置き換えて理解できるからである。

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普遍教育実践講座第250回「橋下知事へ直訴-10-」

「物質精神」から「生物精神」への道。言葉は単純だが極めて困難な道である。

(1)他人の子供でも自分の子供と同じだと思う心の作用を完全にする。そうすれば、どんな結果になるかは既にこのシリーズで述べた。それまで自分の心に無かった感情が幾つも派生し始める。そして自然に次の段階へ移行する。

(2)動物も人間と同じように感情や心の痛みを共有する、と実感する。常に優しく撫で触り心で対話を繰り返す作業をしなければ、実感できるよう にはならない。与えた分だけ確実に愛情が返ってくることを知り、深い愛情を所有していると感じ取ることができる。そのうちに自分と全く同じで自分自身でも ある、と体得する。

こうなれば、世界が一気に眼前に迫る。海の向こうに居る人間や動物は自分自身である、と会得・体得できる。北原白秋は、自宅の縁側で庭に来る雀を日々欠かさず二年間観察した後、「雀と自分は同じである」と体得した。

リンカーンは「私は人類の権利と同様に動物の権利を支持する。それが本来、人間の取るべき道である」と述べた。彼らは、自分が動物好きだと言っているのでは無い。動物とは自分自身だと言っているのだ。飼っている犬に綱を付け散歩している程度では対話とは言えない。

頬をくっつけ「君は犬で私はなぜ人間か?反対でも決しておかしくは無い。私が人間である理由などどこにもないし、その資格がある訳でもない。ま た君が犬である理由もない」など心で語ることだ。回を重ねる毎に段々深く伝わってくる。そして地上は自己と一体で、生物は全て自分と一緒に息吹きしている と感じ取るだろう。人類は言語を使い始めて深い心を失い始めたと識るべきである。

(3)そのうちに、相手が哀しい存在であることに気付く。感情が豊かであるにも関わらず知恵を持たされず、希薄な感情の人間にばかにされ物質扱いされている。知恵がない故に出来ないことが多数あることを理解し、立場を解ってやらねばならぬと体得することである。

ここに至ると、自己の心に透明感が出て全ての物事や事象、そして人間に対する人格や人間性が透けて見えるから、とても不思議だ。何度もいうが、人間を参考にしても「物質精神」からの脱出は不可能である。

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普遍教育実践講座第249回「橋下知事へ直訴-9-」

生命あるものは、生命あるものを教科書にしなければ取り返しのつかない結果となる。

今までの歴史から、人類は数え切れないほどの過ちを犯してきた。それはもともと私たちが「重力」から持たされている「物質精神」のまま、自己を放置しているからだ。他の動物を参考にすれば明確である。

例えば、猫や犬の本能である「物質精神」は昔も今も変わらない。しかし、人間には知恵がある。知恵を以て「生物精神」へ移行しなければならな い。その為には命ある動物を教科書としなければ、私達の心を豊かに育むことは不可能である。私達や動物が持つ心「物質精神」は、自分から1センチメートル 以内で接した相手に最も感情を深く持つ。

母親が、お腹に赤ちゃんを宿し母乳で育てることは、この距離である。そして代替えが出来ない役割である。深い愛情を持つのは当然である。また、 相手に対する関心や敵への危険度認識の距離は約50メートル程度である。人間の場合、兄弟や友人などは、この距離の範囲となる。草食動物の場合、50メー トル以上向こう側に肉食動物が居ても、さほど危険とは思わない。

つまり、50メートル以上向こう側、あるいは見えない所にいる人間や動物を、観念では人間や動物と分かっていながら意識の中で半分以上物質扱い にしている。このように、私達や動物は意識の距離感を「物質精神として」インプットされている。これらの具体的な距離の数値は、地球と大気圏、地球と月の 関係から考えた。

この、与えられた閉鎖的な「物質精神」は、ただ生存するだけの基礎である。意識や感情を世界の隅々まで行き届かせる「生物精神」をおのおのが、 自己の中に植え付けてゆかねばならない。そうすることで意識の中で物質扱いにしてきた生物や物事を、リアルに身近なものとして感じることができる。

そして世界中の人や動物の息吹が、自己と一体となり、他の心の痛みが自己と一体化する。世界を自分の中の事として、考えるようになる。世界中の人間が、地上と自分が一心同体であると会得した結果、全ての紛争や諸問題が解決される。

ここで初めて、この連載上で述べている「他は自分で、自分は相手(他人や動物)である」と言っている事が理解出来るだろう。その「生物精神」の訓練を指導するのが教師であり、その現場が義務教育である。

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普遍教育実践講座第248回「橋下知事へ直訴-8-」

創造者、重力は私達を含む哺乳(ほにゅう)類を物質として創った。感情や感傷などは無視してである。無視しなければ、残忍な食物連鎖のシステムは創 れない。重力には肉体がないから、その痛みが感じ取れないのかもしれない。親子関係の情や交尾などの行為は、物質としての存続を果たす為のものである。地 上における全種類の生物が、いかに増えず減らず生命の営みを繰り返すか。

このメカニズムは、1つを壊し(殺し)壊した物(死んだモノ)を補充(喰(く)い)して、1つを保持(生かす)する。よく消耗する(殺される)モノは2~5個体を創り(生ませ)1個体を残す(生かす)。

ここでは、破損・故障したモノ(私達の言葉で言えば傷ついたりケガしたモノ)は正常なモノに吸収され(喰われ)無存在となる。動物として持って いる「悲しい・苦しい・痛い・辛い・寂しい」などの形容詞で表される部分は、創造者からインプットされたものを少し派生させた心の作用にしか過ぎない。こ こまでが重力・質量に支配された構図である。

細やかに見える感情でさえも、重力の支配の域を出ていない。しかし、哺乳類を代表して人間としての使命が私達には課せられている。全く同じ感情を持つ、他の動物の痛みを実感してやり、各種、各々が安住できる環境を侵すことなく温存を図ってやらねばならない。

私達は他のものを物質として見るようにインプットされている。それを心で跳ね返さなければならない。何度も言うがここから精神を培い育む行為を 教育に組み込まなければならない。私達は三次元に位置し、二次元(紙媒体)から知識を得て三次元をいかに生きるかとこれまで考えてきた。物質によって創ら れたから物質ばかり追いかけ精神の開発が全く進んでいない。

学ぶ対象は二次元でも三次元でもなく、生命あるものは生命あるものを教科書としなければならない。人間を透して人間を観るのでは誤る。人なら ば、道端に横たわる赤ん坊に成りきり、どんな人間に拾いあげてもらいたいか自問すればわかる。また、動物に成りきり、その目で人間を観ることである。そう すれば同じ感情を持つものを今まで物質として見てきたことが良くわかるだろう。

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普遍教育実践講座第247回「橋下知事へ直訴-7-」

…ほんの少しひねって目を向ければ、この世界には疑問が山ほどある。例えば、大型の草食動物が肉食動物に襲われた時、どうして噛(か)み返さないのか?なぜ噛み付かないで、角や脚で応戦したり走って逃げるだけなのか。鋭い爪や牙を持たされていないのは、なぜなのか。

なぜ 弾力性のある四脚ではなく蹄(ひづめ)で棒脚なのか。背中に飛び乗られ首や脊髄(せきずい)を噛み抉(えぐ)られ易いようになっているのは、なぜか。全身 に柔らかい弾力性を持たされていないのは、なぜ?肉食獣に襲われた時、群れを成しているのに集団で一斉に反撃しないのは、なぜ?

必ず他から殺されるような弱点を各々に背負わせているのは、なぜ?草食動物に弱点がなければ食物連鎖は成り立たない。パーフエクトな自然の摂理を創れるはずなのに、干ばつや洪水などに因って動物たちが死ぬように創ったのは、なぜなのか。死なないように、出来たはず。

因数を調整するためか?天災がなければ因数が増えすぎるから?人間は知恵があり、欲がからむと、どんなことでもどこまでも追求するのに、ここに 述べている内容などは、なぜ少しも追求しないのか。幼児性が抜けた途端に、思春期や青春と呼ばれるものが何故ある?真理を追求し真理を超える考えをさせな いで、他に目を向けさせるため?あるいは、種を存続させる為?

出産が苦しいのに、またセックスするのは、なぜ?出産の苦しさよりセックスの関心が勝るのは、なぜ?突然、人間が人間を殺すように創られたのは、なぜ?自分の子供や親が死ねば悲しいのに、他の者の死に悲しまないのは、なぜ?

争いに関心を持たされているのは、なぜ?オリンピックでは全ての種目が重力に挑戦する競技である。そうして重力に挑戦しながら身体は鍛えるの に、重力の求心性に挑戦して精神を闘わせないのは、なぜ?(ここで言う精神は忍耐力のことではない)。この様に、三原則から与えられた「動作と心」以外は 気が付かなくなっている。人間や動物がお互いに共有する「あらゆる心の痛み」は、同じなのに他の「心の痛み」を感じ取れる能力を持たされていない。だか ら、せめて持たされた「お粗末な心」を派生させ開発させ、限りなく良心を磨き上げなければならない。

そして、これを教育に織り交ぜることは、全世界の人間が成さなければならない使命であり責務であり存在理由である。

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